文京区本郷ピアノ教室 講師紹介

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私とピアノの紆余曲折人生

森山 光子

 

母から繋がる音楽の道

生まれた時から母が戦前に購入したホルーゲルのグランドピアノがあり、幼少のころ、母から手ほどきを受けました。

私のこれまでの半生をお話しするには、まず、昨年98歳で帰天いたしました母のことをお話しせねばなりません。

 

私の母は1944年秋芸大ピアノ科を、井口基成門下で首席で卒業するも1945年には幼馴染であった父と結婚。

女性は家を守るべし、というその頃の古い考えのもと、戦後の狭い社宅で姑と、姑の母と同居。

やむなくすっかり音楽の道を諦め、商社マンで海外赴任の多い父の代わりに2人の姑たちの世話、私を含め3人の子育て、主婦業に専念したのでした。

1968年頃長女の私が音楽を勉強することとなり、父の勧めもあり母は徐々に音楽の道を再開。

1971年頃48歳で友人の紹介で武蔵野音大に職を得、1978年父と祖母が他界するもその後、73歳まで、25年間音大に勤務しました。

大正12年関東大震災の年に生まれ、太平洋戦争激動の昭和をこえ、平成、令和と東日本大震災も体験した母の一生は、NHKの朝ドラの台本になるほど波乱万丈でございました。

そのうち台本を作り、ドラマにしたいものです。

 

遊びっぱなしの幼少期、そして遅ればせの音楽道スタート

こんな母の元で育った私は、一切ピアノは強要されず、ピアノは触れては遊ぶものと認識していて、メトードローズで母が教えたらしいのですが、真面目に練習することはなかったのです。

お庭の草を摘んでは、ままごとをしたり、祖母や曾祖母の針仕事をまねたり、毎日が日曜日のような好きなことしかしなかった日々でした。

只、小さいころから、歌うととても良い音程で、母はうれしかったようです。

15歳で、大変遅ればせながら、音楽の道に進むことを決意。

猛ダッシュで、毎日3、4時間は練習するピアノ生活をスタート。

ピアノを熱心に練習するようになったら、通っていた桜陰学園高校で、いきなりトップクラスの成績をとり、自他共にびっくり。

ピアノの練習から集中力が身につき、新たな神経回路ができてきたのでしょう。

ピアノは脳にという今の様々なデータを、身をもって証明したということです

芸大ピアノ科をめざすも、2次試験であえなく敗退。

初見視奏で、アレグロの曲をゆっくり弾いたのが、敗因でした。

初見視奏の重要性に気付かなかった完全なる準備不足。

 

留学 日本との文化の違い、響きの違い 悩み多く自分をまとめられない不器用な私 

鼻息荒く、どこの私立校にも入りたくないと、他校を一切受験しなかった私は、行き場がなく、どうしようかと、日々うつうつとしていました。

が、捨てる神あらば、拾う神あり!

たまたま来日されていたドイツの作曲家H.ロイター氏の目に留まり、西独シュツットガルト音大ソリストコースに留学。

19歳から21歳の時期、旧西ドイツでの留学生活を体験。

若いがゆえに肌感覚で吸収したヨーロッパの人々の人生感や音楽観は、その後の私の成長の軸となっています。

当時はアンカレッジ経由で北極の上を飛び、初めての飛行機の長旅にヘロヘロになりながら、到着したのでした。

窓の外から聞こえてくる道を談笑しながら歩くドイツ人のドイツ語の響きは、朝っぱらから喧嘩をしているように聞こえるし、彼らの主張の強さにただただ驚くばかり。

毎日がカルチャーショックの連続でした。

しかし、ピアノに関しては東京ではうだつのあがらない私でしたが、なぜかドイツ人受けがよく、褒められまくり、30人ぐらいの受験生のうちの3人だけ合格したソリストコースに入学。

ところが、やはり人生そうそう甘くはなく、今度は師事した先生とどうにも相性が悪い。

先生曰く、アンタは、感性はとても豊かだけれど、教育されてないわよ、私のメソードでしっかり教育するわ、と。

先生の示されるメソードにはまってみるも、如何せん窮屈で窮屈で、、、。

だんだんピアノが弾きづらくなり、悩み多き生活。

半面、ドイツのパンや無塩のバター、プレッツェルという八の字の塩味のパン、クリスマスのシュトーレン菓子、ホームメイドの焼きチーズケーキはほんとに美味しい!

まだまだ当時は輸入されていなかったドイツのスイーツたちは、私をすごく慰めてくれました。

ありがとう、ウエストは10センチくらい成長しました。

楽しい体験もいっぱいありました。

CDで有名なショパン弾きのA・ルービンシュタインの軍隊ポロネーズの演奏を聞いて、留まることのないクレッシェンドにぶったまげたり、28歳位のM・ポリーニの弾くショパンコンチェルトの美しさに感動したり。

12月のクリスマスマーケットはホットワインの香りと共にくるみ割り人形の舞台のようでしたし、5月になると教会の芝生に顔を出すクロッカスやチューリップの花々にドイツの人たちの持つ5月のイメージを知ったり。

初夏にソルフェージュクラスの先生が呼んでくださった串刺し牛肉食べ放題のバーベキュー大会、大切な青春の心地よき思い出です。ドイツの方の心の暖かさにいまでも感謝しています。

ピアノに関しては、1年半試しても成長は感じられず、これというものが掴めませんでした。

ついに日本の先生や両親の反対を押し切って、その先生への師事をやめ、他の先生に変わりました。

新しい先生は作曲家の伝えたいことに重点を置いて教える方で、音楽って言葉以上の物なんだと初めて実感しました。

しかし自分の奏法は依然として安定せず、いろいろ悩みは尽きません。

 

帰国を決意させた母のピアノの衝撃の音

22歳になる年、母から手紙が来ました。

春に、一度東京に戻ってピアノコンチェルトを弾きなさい、モーツアルトのニ短調はどうかしら、との内容でした。

今の時代のように携帯電話やメールはないですから、高額な国際電話と往復2週間かかる手紙のやりとり。

その後、旧ソ連の上空を飛ぶ往復格安航空券を買って帰国。

帰国すると、日本で師事していた先生から私の演奏に大クレーム。

もう教えたくないとまで言われ、音大で教え始めていた母が”私がおしえますから、そうおっしゃらずに”と一生懸命取りなしてくれて、収まりました。

私は先生の言うことも、母の言うことも聴きたくない、あ~あ、やだやだ、戻ってくるんじゃなかった、と後悔するも、泣いている場合ではありません。

演奏会の日は近付くし、とにかくモーツアルトをオケ伴奏でひけるようにしなければ。

言うことを聞かないふくれっ面の私を相手に、母は毎日第2ピアノを弾いて支えてくれました。

そんなある日、母の生徒さんの発表会があり、そこで、母がプログラムの最後にリスト=アラビエフの”鶯”を弾きました。

私は耳を疑うほどびっくりしたのです。

ドイツで聞いたすてきなピアニストたちの伸びのある音、空から舞ってくる花びらのような繊細なパッセージ、心打つフォルテの豊かな和音、それを事もあろうに私の母が奏でているのです。

長く演奏に携わっていなかった母の演奏をホールで聴くのはこの時が生まれて初めてでした。

涙がとまりませんでした。

今でもその時の母のグリーンのワンピースが脳裏に焼き付いていて、その不思議な響きが耳に残っています。

衝撃の出來事でした。

母のような音が出したい、翌日から母が教えてくれることを良く聞き、モーツアルトは演奏会当日ほとんどノーミスで演奏できました。

再びドイツに戻ったら、もう日本に帰って来ないのではないかと、両親はえらく心配しておりました。

もう1度ドイツに、、、ドイツに戻る、、、戻らない、すっごく悩みました。

そして最終的に、私を日本にひきとめたのは、母のあの鶯のピアノの音でした。

よーし、こうなったら徹底的に母の奏法を理解して、いい音が出せるようになってやる!と決心しました。

 

結婚、甘くはないぞ人生!そして離婚

その後、自宅にて母が開室していたピアノ教室で新米のお嬢ちゃん先生として教えるようになりました。

そして、お見合いをして、結婚。

いつまでも実家にいるわけにもいかないし、留学より楽だ、ぐらいの気持ちで、まあなんとかなるわ、と安易に結婚をきめました。

が、この安易な考えにしっぺ返しをくらいました。

またまた、次なる人生の荒波が到来。

大好きなピアノを弾くことは続けたく、子供が生まれても、ピアノ教師を続けている私に、神経質な主人はイラつくようになり、段々と夫婦間に暗雲がたれこんできたのでした。

結婚というのは、やはり今も昔も、よく考えてしないといけません!

完璧な専業主婦を望む主人と、演奏や教えることを通して一生音楽と離れたくない、と思ってる私と、どんどん心が離れてしまい、離婚。

ついに幼い2人の子供を持つシングルマザーとなってしまいました。

当時はまだまだ昭和の真っ只中。

まわりを見ても、離婚する友人は皆無でした。

雛人形を見ては、ああ、私は夫婦2人の生活を守れなかった、我人生に敗す、と涙が溢れました。

もちろん子供たちのことを考え、浅はかな私は、私なりに日々悩みました。

現在は議員さんになられている円より子さんのニコニコ離婚講座というのに参加すると、"あなたは自分でどう生きたいの?答えがでたらまたいらっしゃい。”と言われました。

そうか、、、。それまで、主人がどうとか、こんな酷い事を言われたとか、主人の私に対する言動にばかり捉われていた私は、いったい自分の人生に何を望んでいるのだろう。

自身の心の奥底に尋ねることを繰り返し、繰り返し、何日も眠れぬ日を過ごしました。

そして、私は子育てと音楽と両方したいんだ、その気持ちに偽りはない、私の人生は私の物だ、悔いのない人生の為にも離婚しよう!と決心が付きました。

離婚が決まった日、ハイドンのイ長調の変奏曲のテーマを弾くとなんと音が天まで登るのだろう、なんて自由なんだ、なんの束縛もないってこんなに気持ちいいことなんだ、とのびのびできる幸せを強く感じました。

 

人生のリセット・自分の人生は自分が主役。

母は私と娘達の生活を物心両面で全面的にバックアップしてくれました。

それがなければ、呑気に離婚もできなかっただろうと思います。

強力な味方に恵まれたシングルマザーでした。

子供のために、ピアノなど捨てて別れず我慢しなさい、というアドヴァイスもありましたし、逆に子供の為に別れなさい、というアドヴァイスもありました。

様々な方からいろいろな言葉を頂きました。

でも、私の人生を生きるのは私しかない。

当時は30年40年先のことは考えられませんでしたが、光陰矢の如し。

30年40年の時が経った今、この【今】は私の選んだ結果だと納得できています。

離婚後は、ピアノを軸とした約40年の母との2人三脚生活が始まりました。

しかし、子供にとっては離婚は大きなショックですから、我が子の人生にできるだけ暗い影を落とさせないようにと想い、極力主人の悪口は聞かせませんでした。

兄妹も良く助けてくれて、娘たちが普通に育ったことは、大変幸運でした。

ただただ感謝です。

強運のお守りを下さる神社さんに娘たちと母とで何度もお参りにも行きました。

神様仏様、ありがとうございます。

ピアノ教室の仕事は、すごく自由な気持ちになれて、大好きでしたし、一生懸命やりました。

どうやったら生徒さんが良い音が出せるかな、どうやったら聞く人を引き付ける演奏になるのかな。

当時、音大で教えていた母と食卓で話題にするのはピアノのこと、レッスンのことばかりでした。

娘達が呆れて批判さえしなくなるほど、30代から50代にかけて、ピアノバカの毎日でした。

そうした中で、母がムジカノーヴァに呼吸と姿勢に基づいた良いピアノ奏法に関して寄稿するようになり、私はちょっとしたゴーストライターのような役割を果たしてゆくようになりました。

遠慮のない母と娘の間柄ですから、変だと思うこと、わからないこと、は徹底的に食い下がって確かめました。

幼い時からスキー、スケートをこなし、テニスコートが自宅にあり、乗馬までしていた洋風な母と、日本風な家風の中で明治生まれの和服の似合う祖母にかわいがられ、お行儀よく育った私は、体形も全く違うし、考え方にも大きな違いがありました。

ですが、その違いを飛び越えて、素敵、と感じる音や音楽は、ぴったりと同じでした。

母が思い描く理想を、こういうことなの?と毎日ピアノを弾いては、しつこく問いただしました。

今のようにコピー機が家庭にあるわけもなく、母娘で、家中消しゴムのかすだらけにしながら、書いては消し、書いては消しの繰り返しによって、原稿が完成するのでした。

そのおかげで私は、母が感覚的にやっていたことを、色々な面から言葉や振りで表現するということができるようになり、生徒さんに具体的に教えるのが、上手くできるようになったのです。

そのころは、世の中のピアノブームもあって80人くらい近所の生徒さんが来てくださる時期もありました。

口コミでいっぱい生徒さんが来てくださる人気のある教室でした。

本来私は、保育士さんになってもいいくらい子供好きなのです。

小さいお子さん のレッスンをするには体力も頭も使いますが、大好きな仕事なのです。

お子さんを相手にすると、何故か、教える側の私自身の心が伸び伸びするのです。

 

日本初の母娘ピアノデュオ

母と葛藤し試行錯誤しながら生み出された奏法は、2004年音楽の友社 "ピアノ演奏の秘訣“ として共著で上梓することができました。

母は毎年イイノホールやサントリー小ホールなどでリサイタルを開いていましたし、私は母から習ったことを実践したくて、リサイタル、ジョイントコンサートやピアノ協奏曲にチャレンジしたり、楽しく勉強しました。

1979年に第1生命ホールでホールで母娘デュオのコンサートを開催以後、2021年に母が亡くなるまで連弾及びデュオのコンサートをほぼ毎年開きました。

そして、ムジカノーヴァや,国際ピアノデュオ協会などで、"日本初の本格的親子ピアノデュオ“と紹介されもしました。

1984年ころ、来日したウィーンのピアニスト、故J.デームス氏の薫陶を得、

“君は大変弾き方が良いが、誰に習ったの?それにレッスンするとすぐによくなるね。才能がある。”

と褒めて頂いたときは、母も私も嬉しさピークでした。

NHKの衛星放送に公開レッスンの生徒役で出演したり、デームス先生と学習院のホールでN響をバックにバッハのドッペルコンチェルトを演奏したり、ピアノデュオの夕べで共演させていただきました。

ヨーロッパの天才の一人デームス先生の生の音を2台ビアノのレッスンやコンサートでシャワーのように浴びた経験は、何事にも勝るものでした。

毎日の子育ての中、忙しく時間を作るのに大変で、深夜まで練習したりしましたが、ピアノを弾くことも、教えることも、私の願った方向に進んでいると、自分に多少なりとも満足のいく日々でした。

 

リトミック開校、グループレッスン、ピアノ道は進む

2004年頃少子化でだんだん生徒さんが減る一方なので、こりゃ大変、と一念発起。

リトミック研究センターに2年通い、資格を取りました。

リトミックを学んだ事は、教え方のグレードアップになりました。

ピアノの教え方にも、大きく幅が出て、ピアノの先生方へのレッスンで、実際にマズルカの符点音符を跳んでもらうと、すごく演奏のリズムが良くなったり、皆様に喜んで頂きました。

勉強はいくつになっても、始めた時が、就学期です。

母の方は73歳で音楽大学を退職し、自宅で教えるようになっておりました。

レッスンそれでもピアノの先生をしていらっしゃる方が10人くらい集まって下さり、テーマを決めたグループレッスンを一緒に年20回開催していました。

2010年に私は、生徒さんの励みにと思って受験した英国王立音楽院ピアノ演奏検定ディプロマ部門で、栄えある西南アジア最高点を頂き、2011年3月シンガポールで表彰会がありました。

しかし、残念ながら、出発予定の直前におきた東日本大震災のため、授賞式参加を断念しました。

 

介護が始まる。それでも諦めなかった音楽の道

2016年の6月、ルーテル市谷センターでの93歳の母と二人のコンサートを予定していた2週間ほど前の日曜日のことでした。

グループレッスンを二人で行い、その日は何か食欲がない母を気にしつつも、遠くからいらした生徒さんを教えて、眠りに着きました。

翌早朝、母が突然突然倒れてしまったのでした。生まれて初めて救急車に乗り、兄妹、娘たちに震える手で電話をかけました。

脳梗塞になってしまった母を1ヶ月の入院の後、自宅に戻し、私は長い自宅介護生活を5年することになりました。

 

それからは、コンサートは母の体調をみながら、娘も参加して3世代コンサートとして、リハビリをかねて自宅サロンで、2019年まで3回開催しました。

2018年、私自身それまで挑戦してこなかったコンクールに挑戦。

思いもかけず、ノアン・フェスティバル・ショパン・イン・ジャパン・ピアノコンクール一般の部で1位とショパンナイト賞を頂き、ショパン思い出の地ノアンにて演奏させて頂きました。

自分の耳と感覚だけをたよりに良いと思う方向にピアノを弾いてきた私。

それが間違いではなかったことを認めて頂き、たいへん名誉で、大きな励みになりました。

また介護の日々の中にあっても、教室の仕事を必死で続けて、かつピアノを弾き続けたことで、不安とストレスに心が潰されずに済みました。

音楽があったから、母も私も5年のピアノ付き自宅介護生活を送れたのです。

 

ピアノ演奏の秘訣 音楽的技法のエッセンス ムジカノーヴァ叢書

 

母は2021年6月に1か月の入院ののち、他界しました。

98歳でした。

 

しばらくは、私は半身が消えたように自分が自分でない毎日でした。

が、レッスンは休まずに、かわいらしい生徒さんのお顔や元気な若いママたちにお会いすることで、随分と、心癒され、日々を過ごすことができました。

ピアノ教室の仕事が、私を支え、涙を振り切ってくれています。

この秋の発表会が第51回になったことには、自分自身驚いています。

 

長く教えてきて思うこと。 レッスンの主役は生徒さん、一人一人の幸せに貢献したい

 

あっと言う間に50年をピアノ教室とともに歩み、私は若いお嬢さん先生から子供のいるママ先生を経て、孫のいるおばあちゃん先生になってしまいました。

しかし、ヒトの健康寿命は年々長くなっておりますので、あわよくば、私も健康長寿を目指して、100歳のひ孫のいるピアノの先生になりたいと思います。

生徒さんもこれからの高齢化社会にむけて、御自分の健康長寿に役立つ習い事として、ビアノを息長く続けて頂きたいと想います。そのためにまず自分のことが自分でできるように健康でなければなりませんね。

それから、先生としては、世の中のお若い世代の方が何を音楽に求めているか、お子さん達には何をしてあげたら幸せに育つお手伝いになるのか。

などと、いつもいつも考えていなければいけません。

ボケている暇はありません。

それでもボケたら天命と思って受け取りましょうか。

人事を尽くして天命を待つ、の一言に尽きます。

 

若いころは、こう弾いて,ああ弾いて、と生徒さんに先生としての要求ばかりしていたように思います。

今でも、もちろん音の響きの理想はありますし、生徒さんには美しい響きを理解してほしいですから、当然要求も致します。しかし、ばあば先生になった今、つくづく思うのは、レッスンでの主役は、生徒さんご本人だということです。

私が弾くときは、どんなに人様に褒められようと、けなされようと、私が思うように弾くのが一番しあわせです。

私が弾くときは私が主役です。

ですから、生徒さんに弾いてもらうにもご本人が、どう感じるか、弾いていて幸せかどうか、マズローの5段階評価の自己実現が叶っているかが大切、生徒さんが主役と思うようになりました。

 

生徒さんの年齢や経験によって様々な幸せ感があります。

小さい方はまず、お母様やお父様と楽しく歌うこと。

そしてちょっと進んでくればそれをピアノで弾けることに喜びと満足を感じるでしょう。

大きくなっていけば、かっこいい曲を弾くと気持ちが高まりますし、曲の持つ意味も当然考えるようになるでしょう。

その時に一緒にこうじゃないかとか、ああじゃないかとか、お子さんの目線に寄り添って考えることはとても楽しいことです。

いろいろ理解を深めることは、知的な満足感に繋がります。

 

初めてピアノをなさるシニアの方は、まずは苦手意識をもたないように楽しくやっていただきます。

弾けた、という驚きと喜びが自己肯定感につながり、人生に前向きになることへとつながります。

音と共に指を動かし、心も動かす。それは絶対に健康長寿に繋がると思います。

私や私の母がそうであったようにです。

こう申し上げると初めてのレベルでそんなことは絶対ない、とおっしゃるのですが、そんなことはありません。

どんなレベルでも音楽が豊かに与えてくれる要素に垣根はありません。

ご年齢を重ねていらっしゃる方には、音楽の持つ意味がお子さんとは違って実感としてとても深く理解できるようです。

素晴らしいことです。

とても味のある響きを出せるシニアの生徒さんもおられます。

 

ピアノの先生方に奏法をご説明する時には、より日常的な動作、人間の普通の感情とともにあるタッチ、というように、実際的なことを例に取り、お示しするようにしています。

漠然ともっとレガートでとか滑らかにと言われても、ピンとこないのです。

スポーツの根性物語みたいにガンガンと練習するのでなく、物理的にピアノの音の発生の仕方をよく理解し、自然な体の使い方をすれば、どなたもピアノから美しい響きを出すことが出来ます。

すごく楽になり弾きやすくなった、家の人に今までとは音が違ってきたと褒められた、などと言っていただくと、私はすごく嬉しいのです。

 

私は、長く教えて来たことで、いろいろに教え方の引き出しを増やし、かつ使い分けることを覚えました。

が、根本にあるのは、私がこれまでの人生を通して、音楽の素晴らしさを体感したところにあります。

長いお付き合いの生徒さん、30年40年の方もあり、お互いの顔をみては、内心、年取ったな、と思っているはずでございます。

 

場所がら、東大生、東大卒の方もたくさん教えました。

暗譜、譜読みと、やっぱり頭がいいです。

でも、心で感じることは、あまりIQとは関係がないように思います。

音楽は、もちろん高度な知性を反映できるものですが、同時に大変本能的なものでもあります。

ですから勉強が出来る出来ないに関係なく、ひとは、心で音楽を感じ、自分の心を歌うことができるのです。

ピアノは、自分の心を音に乗せて歌える楽器です。それは自己実現の願望をしっかりと叶えてくれます。

 

先日の51回目の発表会では、コロナの心配もありましたが、久しぶりにお客様をお入れして、皆さん演奏されました。

とくに低学年までの方は、なるべくお母様かお父様と連弾をして頂く様にしています。

ピアノがはじめてのお父様でも、わが子のために必死で練習してくださった姿はとても素敵でした。

お祖父様、お祖母様からも本当に感動した、と言って頂き、お役に立てたことが、本当に嬉しく、ピアノを教えていて良かった、と心から思える一日でした。

 

まだまだ私のピアノ人生は続きます。

レッスンに通われるお一人一人が音楽から幸せな贈り物を得てくださるよう、お手伝いが出来る事が、ピアノ教師として最高の喜びでございます。

どんな生徒さんに巡り合いどんなレッスンができるかと,わくわくと期待する毎日です。

 

私の音楽との格闘半生、いや、仲良し半生をお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

森山光子プロフィール

幼少から母森山森山ゆり子(昭和19年東京芸大ピアノ科卒)から手ほどきを受け、桜陰学園高校卒業後、1971年から1974年まで西独シュツットガルト音大ピアノ科ソリストコースに留学。

帰国後はソロリサイタル、ピアノ協奏曲、ドイツリード伴奏などで活躍。

 

谷康子、松浦豊明、L.ギアト,J.ウーデ、J.デームスの各氏の師事。

特にデームス氏とは、N響をバックにバッハの2台のピアノのための協奏曲、ピアノデュオの夕べで共演した。

草津でピヒト女史、ルツェルンにてM.ホルショフスキ、ポーランドでJ.スリコフスキーのマスタークラスを受講。

 

1995年~2000年ころまで、ムジカノーヴァ誌に、母と共に【よい姿勢と呼吸に基づいたピアノ奏法】の記事を寄稿。

2001年、音楽の友社より 【ピアノ演奏の秘訣~音楽的技法のエッセンス】を母と共著で上梓。

2005年、リトミック研究センター認定教室を取得。

2010年、英国王立音楽院ピアノ演奏検定ディプロマを西南アジア最高点で取得。

2018年、ノアンフェスティバル・ショパン・イン・ジャパン・・ピアノコンクール

一般の部第1位、ショパンナイト賞を受賞。

 

ピアニストであった母を2021年に亡くしましたが、5年間の自宅介護を体験。

自分もシニアですので、お気持ちがよくわかりますので、シニアのかた、レッスンは安心してお任せ下さい。

生来私は、、子供好きで、小さいお子様ととても楽しくレッスンいたします。

子育て孫育てもしていますので、お母様方といろいろな悩み事も共有したりしております。

長年探求してきた良い姿勢と呼吸による奏法とリトミックをくみあわせて、無理なく、美しい音で弾けるように、指導いたします。